わたしの感受性くらい

タイトルは、とある詩をもじってつけています

「初めて」に出会ったとき

 自分のよくないところ、なおさなきゃなと思うところがいくつか(いくつも?)あるのだが、そのひとつに、今まで経験したことのない「初めて」の感情が湧いてきたり「初めて」の場面にぶつかったりしたときに、思考停止してしまってどう対処したらよいかわからなくなってしまう、というのがある。

 この年末から(年始は休めた)今も、その渦中にいる。信頼できる人に事情を話し、相談し、ときに励まされ、こうしたらいいのでは?と解決策を教えてくれることもある。こういうとき、私は何も考えられなくなってしまうし、そんな自分がとる行動が正しいかもわからなくなるので、頼れる場所があることは本当にありがたく、感謝しかない。この時点でまず、わけがわからなくなる自分の状態をなおしたいし、どんなことにも冷静に判断できるようになりたいなと思う。私にとっては冷静というのがいちばん難しい気がするけど。

 そうやって周りの力を借りてヒントを得ながら事態そのものは収束していくわけだけれども、一方で自分の気持ちはなかなか落ち着かない。あのときの私はどうしてもっとこうできなかったのか、あのときなぜこんなふうに思ってしまったのか、本当にそれが事実なのか、、、とか。もう過去のことだしその件については、事態としては「終わったこと」なのに、なんか私が許せないというか、「終わったこと」にはできないんだよな〜。時間が解決してくれるのだろうか。忘れはしないが、もう少し記憶を薄めて納得して進みたい。そしてぶつかってから納得して進めるようになるまでの時間を短くしたい。

 ただ、考えすぎて眠れない・食べられないなど、日常生活に支障をきたすようなことはなく、そうならないように生きる自分なりの方法をもてるようになったので、そこは改善しつつある。気持ちの整理って難しい。今年の目標に加えようかな。

オンライン学会に参加して思ったこと

 オンライン学会に参加した。オンラインでの参加は初めてだったので、簡単な感想を書いておく。

 まず、オンラインということで今回は参加費が(会員は)無料だった。会はZoomのウェビナー式で、数日前に申込者宛にリンクが添付されたメールが送られてきた。当日は、司会も発表者も参加者も、つまり誰も顔が見えない状態だった。参加者の一覧などはわからないようになっていて、参加人数は質疑応答の流れでわかった(今は〇〇人の方が参加されていまして〜のような)。私は自宅からiPad で参加したが、発表中は画面共有されたスライドが画面全面に映し出されて、発表者の声を聞くという感じ。質問者は挙手ボタンを押すと発言が許される(パネリストに昇格する)ように運営側(ホスト)がしてくれる(おそらくそう)。質問者の顔も見えないので、ずっと誰の顔も見えない状態だった。進行に関しては、特にもたつくこともなく、会自体は、人が見えない以外はいつもどおりだったと感じた。発表集はpdfで送られてきた(希望すれば郵送でも対応してくれるようだ)。

 学会に限らずオンラインの会合は、通信環境に問題がなくて操作に困らずうまく使えれば、今後広まっていくと思う。全国(世界各国)の人と話ができ、より多くの人に伝えたいことを伝えることができ、応用可能性を感じた。というか、ここ数か月のオンライン授業を見てそう感じている。まだ100%みんながみんなオンラインでばっちり、というわけではないが、リラックスして聞けるし、自宅を空けられない人たちにとってもいいし、旅費がかからないのもありがたいかもしれない(特に学生?)。それに、時差さえクリアできれば海外の会合にも参加できる。就活もオンライン面接増えているよね?

 一方で、これは今回の学会に出て思ったことだが、誰の顔を見ず(見えず)に、会場でもなく、実際に何人の人が聞いているのかわからない、発表者&質問者の所属と名前はわかってもどんな人なのかわからない(まぁ学会だと大体はわかってしまうのか…?)、変な受け答えしてしまったよワタシ!と思ってもあとで話しかけに行くことはできない。。。こういう発表スタイルだと、独特の緊張感や臨場感には欠けるかなと思った。あがり症の私なんかはこういう発表形態のほうがガチガチにならずにできるのかなーなんて思ったりしたのだが、オーディエンスが見えないと不安かな。Zoom中に顔出ししないけどとりあえずアカウントの存在は見えるという状態とも違うから、本当にみんな聞いてるの!?という気持ちになりそう。人前で発表するスキル、スピーチ力みたいなものは向上しないかもな。

 この話を友人にしたら、会社でプレゼンするときに着るスーツがあって気合い入れるんだよねーと言っていて、オンラインで顔出ししないと(見てくれる人がいないから)格好にこだわる人にとっては気合いが入れにくくなっているのだろうか(顔が見えなくてもスーツを着れば解決するのか?私はよくわからん)。発表者も質問者もどちらも、言い方がよくないけれど、「やりっぱなし」感が残ったかなと私は思った。実際に発表された方の感想を聞いてみたいところ。

 そうなるとやっぱり対面とオンラインの併用がベスト?事務局や会場の方々がいろいろ大変でしょうね…。

Impact Study

 学校図書館(の〇〇)が学習者の学びに与える影響とはどのようなものか、また、それをどのように測るのか、を表現する言葉のひとつとして“Impact study”があるのを知った。 

 学校図書館が、学習者の学びに何らかの変容をもたらしているのではないかというのが(これもまた広いが)私の読みだけど、じゃあ学校図書館の学習ってなんだ、そこで何が学べるのか、どのような影響を与えているのか、一体どうやってそれを実証するのか。。。という問答をずっとくり返している。そのなかで見つけた論文のいくつかを以下に挙げておく。

 

  • Keith Curry Lance and Linda Hofschire “Something to Shout About: New research shows that more libraries means higher reading score”, Schoo Library Journal 57(9), 28-33, 2011-09.

 ライブラリアンの有無やその数と、4年生の読解スコアとの相関について、複数の州を対象にした研究。4つのグループに分けてスコアの上昇率を調査した。なぜ4年生かを説明している。それから、文中にあるライブラリアンがもたらすものについてコメントがぐっときた。

 

  •  Keith Curry Lance and Linda Hofschire “Change in School Librarians Staffing Linked with Change in CSAP Reading Performance, 2005 to 2011.A Closer Look”, Library Research Service, 2012-01.

 上の研究をふまえて、コロラド州でやってみた、という研究。認定された/資格のある(endorsed)ライブラリアンの配置数と生徒のリーディングレベルとの相関について調査している。non-endorsed librarianとの差異化を図っているようだ。最後に質的研究で調べられる問いについて言及している。量的か質的か…。

 

  • Marzoli, Rita and Papa, Ornella “School Library and Students' Achievement: A Relationship to Go Into” , Paper presented at the Conference "INVALSI data: a research tool", 2017-11.

 イタリアの9896の学校を対象に、5、8、10年生の読解リテラシー調査でのパフォーマンスと、学校図書館(SL)のbook heritageの規模との相関についての研究。book heritageってどうやって訳すのだろう?ど直訳だと本の遺産…?(私は「蔵書」だと思って読んだ。)SLの機能(functioning)と生徒のパフォーマンスとの関係を、数学とイタリア語のテストのスコアをもとに分析する。そのあとにbook heritageの数の異なる学校に通う生徒のスコアも比較している。

 研究の蓄積については、アメリカにはしっかりした基盤がある、イタリアよりはるかに進んでいるぞと書かれている。はじめにあったイタリアの学校図書館の現状のところもそうだけど、諸外国リスペクト?を感じる。さすがアメリカだー感が漂ってきてちょっと笑ってしまった。

修士課程の終わり

 先月末に修了発表があり、無事に大学院を修了できることになった(式は中止)。修士論文を書きあげて修士号が授与されることに対しては、よかったというかほっとしたというか、そんな気持ちなのだが、この2年が素晴らしく大満足だったかと聞かれると、今はよくわからない。でも、こんな私を導いてくださった先生には心の底から感謝しているし、出会えてよかったと本当に思っています。

 この春休み、予定していた旅行を(文字通り)泣く泣く中止した。入国拒否などではない。情報収集したり、向こうで会う約束をしていた相手(複数人)から現地の様子を聞いたりしていくなかで、自分の意思で決めたことだ。状況が状況だし、今回はキャンセルが賢明だと私は判断した。とはいえ、、、これが想像以上にかなり精神的ダメージが大きく、何をする気も起こらない。

 また計画すればいい、お金を貯めて気候がよくなったら行けばいい、浮いたお金で何か買ったらいい、と慰めてくれた人もいて、本当にありがたかったのだが、私はどうしてもこのタイミングで、寒くても、お金がなくても、今、いろんな気持ちを抱えて行きたかったのが本音←駄々こねてるし超わがまま(笑)。というのも、かなり個人的な感情に引きずられているが、旅行予定先はかつての留学先で、学部の卒業時(つまりちょうど2年前)にも訪問した場所なのだ。2年前、私は進学すると決め、と同時に修士を出たらまたここに来ようと決めていた。だから、例えばの話だけど、仮にいつかリベンジできて楽しく過ごせたとしても、今回のショックは引きずると思う。この旅行のために2年間がんばってきた(修士課程の裏モチベーションだった)と言っても過言ではなく、今回のキャンセルはかなりつらいものになった。だからものすごく個人的な事情だけど、私の2年は何だったんだ…という気持ちになっている。

 旅行にまつわる判断もそうだけど、人の思考のすべてが、判断力的なものが、試されているように思う。旅行を中止したのはえらいとか、そういうことを言いたいのではない。旅行するよ、という判断にとやかく言うつもりもない(私も行くつもりでぎりぎりまで準備していたのだから)。私が言いたいのは、日々いろんな情報が流れ、更新されていくなかで、何を見て、何を信頼(できると判断)し、想像力を働かせて、どういう根拠にもとづいて行動すればいいのだろう、ということ。そういう力を身につけるのが必要だとか何とか考えていた私自身が、態度に示せていなかったのではないだろうか。自問すればするほど暗い気持ちになる。誰かと何かを話す気に、どうしてもなれない。