わたしの感受性くらい

タイトルは、とある詩をもじってつけています

修士課程の終わり

 先月末に修了発表があり、無事に大学院を修了できることになった(式は中止)。修士論文を書きあげて修士号が授与されることに対しては、よかったというかほっとしたというか、そんな気持ちなのだが、この2年が素晴らしく大満足だったかと聞かれると、今はよくわからない。でも、こんな私を導いてくださった先生には心の底から感謝しているし、出会えてよかったと本当に思っています。

 この春休み、予定していた旅行を(文字通り)泣く泣く中止した。入国拒否などではない。情報収集したり、向こうで会う約束をしていた相手(複数人)から現地の様子を聞いたりしていくなかで、自分の意思で決めたことだ。状況が状況だし、今回はキャンセルが賢明だと私は判断した。とはいえ、、、これが想像以上にかなり精神的ダメージが大きく、何をする気も起こらない。

 また計画すればいい、お金を貯めて気候がよくなったら行けばいい、浮いたお金で何か買ったらいい、と慰めてくれた人もいて、本当にありがたかったのだが、私はどうしてもこのタイミングで、寒くても、お金がなくても、今、いろんな気持ちを抱えて行きたかったのが本音←駄々こねてるし超わがまま(笑)。というのも、かなり個人的な感情に引きずられているが、旅行予定先はかつての留学先で、学部の卒業時(つまりちょうど2年前)にも訪問した場所なのだ。2年前、私は進学すると決め、と同時に修士を出たらまたここに来ようと決めていた。だから、例えばの話だけど、仮にいつかリベンジできて楽しく過ごせたとしても、今回のショックは引きずると思う。この旅行のために2年間がんばってきた(修士課程の裏モチベーションだった)と言っても過言ではなく、今回のキャンセルはかなりつらいものになった。だからものすごく個人的な事情だけど、私の2年は何だったんだ…という気持ちになっている。

 旅行にまつわる判断もそうだけど、人の思考のすべてが、判断力的なものが、試されているように思う。旅行を中止したのはえらいとか、そういうことを言いたいのではない。旅行するよ、という判断にとやかく言うつもりもない(私も行くつもりでぎりぎりまで準備していたのだから)。私が言いたいのは、日々いろんな情報が流れ、更新されていくなかで、何を見て、何を信頼(できると判断)し、想像力を働かせて、どういう根拠にもとづいて行動すればいいのだろう、ということ。そういう力を身につけるのが必要だとか何とか考えていた私自身が、態度に示せていなかったのではないだろうか。自問すればするほど暗い気持ちになる。誰かと何かを話す気に、どうしてもなれない。